会社の建物には、たいてい通用口がひとつあります。受付で社員証を見せて中に入れば、あとは会議室も、経理の部屋も、サーバ室も、同じ建物の中は自由に歩けます。VPNは、この形の入り方でした。
当社はその通用口を廃止しました。いまは、入りたい部屋ごとに鍵が違い、ドアの前で毎回名乗ります。同じ建物の中でも、昨日入れた部屋に今日入れるとは限りません。これがゼロトラストと呼ばれる考え方です。
なぜ変えたのか、何が変わって何が変わらないのか、そしてなぜ「鍵の管理」を仕組みに載せたのかを、建物に置き換えて説明します。
通用口ひとつ、という考え方
通用口方式の良さは、わかりやすいことです。入るときに1回確認すれば、あとは自由。設定も単純で、みんなが同じ手順で使えます。長くこの形で問題が起きなかった会社が多いのも、理由があります。
弱いのは、確認が1回しかないことです。通用口で見せた社員証が本物でも、その人が中で何をするかまでは見ていません。建物の中では、誰もが「中の人」として信頼されます。
通用口が抱えていた問題
第一に、建物が増えるたびに通用口が増えること。拠点、取引先のシステム、クラウド。どこへ行くにも入口を作り、鍵を配り、台帳に載せます。台帳はすぐ実態と合わなくなります。
第二に、入口は狙われる場所になること。偽の受付を作られ、社員証をだまし取られると、そのまま建物全体に入られます。入口が1か所に集まっているぶん、突破されたときの影響も大きくなります。
第三に、退職者と端末の扱い。合鍵を回収しても複製されていないことは証明しにくく、どこに鍵が残っているかを正確に答えるのは簡単ではありません。
部屋ごとに鍵を変える
いまの当社は、入りたい部屋ごとに許可を持ちます。経理の部屋に入れる人と、サーバ室に入れる人は別です。同じ人が両方に入れることもありますが、それは「別々に許可されている」という意味になります。
入るたびに、誰が、どの端末で、どの部屋に、を確認します。建物の中にいるから安心、という扱いはしません。社内から来た人でも、許可のない部屋のドアは開きません。
建物側に扉を作らない
もうひとつ大きな違いがあります。通用口方式では、建物の外に向けた扉が必ず存在します。ゼロトラストでは、建物の中から外へ手を伸ばす形にして、外から開けられる扉を作りません。
当社の社内システムの多くは、外向けのURLを知っていても、外からは届きません。建物の中の決められた通路を通った通信だけが、その部屋のドアの前に立てます。壊すべき扉が無いので、扉の鍵を盗む攻撃も成立しにくくなります。
鍵と図面は仕組みで管理する
ここが本題です。部屋ごとの鍵は安全ですが、部屋が増え、人が動き、鍵の種類が増えると、管理のほうが破綻します。当社が力を入れたのは、入り方の変更より、そのあとの維持でした。
鍵の一覧と建物の図面は、担当者の手元ではなく、設計図の保管庫(Git)に置いています。誰がどの部屋の鍵を持つか、どの扉を誰に開けるかは、変更のたびに図面が更新され、レビューを通ります。
さらに、図面の反映を作業者の手作業にしていません。決められた手順(CI/CD)が、図面どおりに鍵と扉を設定し、部屋の設備も最新の状態に更新します。人が覚えておく必要のある手順を減らし、更新の抜けを作らないようにしています。
鍵の管理を「人の注意力」から「仕組み」に移すと、変わることは2つです。属人化が減ることと、後から説明できること。なぜこの人がこの部屋に入れるのかを、記憶ではなく記録で答えられます。
AI時代に、この形が効く理由
2026年、IPAの「情報セキュリティ10大脅威」の組織編で、AIの利用をめぐるサイバーリスクが初めて3位に入りました。理由のひとつが、攻撃の敷居が下がったことです。
民間の調査では、生成AIで作られた偽サイトが41万件以上確認され、その約1割が明らかに悪意あるものだったと報告されています。日本語の不自然さで見分ける、という従来の注意喚起は効きにくくなっています。
通用口方式だと、この偽の受付に1回引っかかると、建物全体に入られます。部屋ごとの鍵なら、取られるのは「その部屋の、期限付きの鍵」です。被害の広がりが、建物全体ではなく1部屋で止まります。
AIを業務に入れる側にも効きます。AIに社内の仕事をさせるなら、そのAIにも「どの部屋の鍵を渡すか」を決める必要があります。人と同じ仕組みで許可と記録を扱えるので、AIを増やしても説明できる状態を保てます。
ただし、ゼロトラストは侵入をゼロにする製品ではありません。侵入されたときに、どこまで広がるか、あとから説明できるかを、設計で決めるものです。この点は誇張せずにお伝えしています。
変わったこと、変わらないこと
変わったのは、入り方と、鍵の配り方と、更新の仕方です。入社初日から同じ手順で必要な部屋に入れます。退職時の棚卸しは、経路の削除ではなくアカウントの停止になります。
変わらないのは、建物を守るために人が判断する部分です。どの部屋に誰を入れるか、例外をいつまで許すか。ここは自動化できません。仕組みは判断を速くし、記録を確実にしますが、判断そのものを置き換えはしません。
判断のための3つの質問
- 社外から社内システムへ入れる経路を、いま一覧で説明できますか。
- その経路ごとに誰が入れるかを、担当が変わっても同じ手順で確認できますか。
- 過去のアクセスを、宛先ごとに後から出せますか。
1つでも「できない」があれば、通用口方式のままでも危険がすぐ増えるわけではありません。ただ、被害が出たときの説明が難しくなります。移行の優先順位は、ここから決められます。
相談できること
当社は、VPNからゼロトラストへの移行と、その後の維持を支援しています。現状の経路の棚卸し、部屋にあたる宛先と権限の設計、更新を仕組みに載せるまでの手順です。実際の構成と制約は、技術版の記事に詳しく書いています。
「どの製品に替えるか」ではなく「入口をどう減らすか」から相談を始めています。お問い合わせください。
参考
- IPA「情報セキュリティ10大脅威 2026」 — 組織編3位「AIの利用をめぐるサイバーリスク」
- Zscaler ThreatLabz「2026年版 フィッシングと初期アクセスに関するレポート」 — 生成AIで作られた偽サイトの実測値
- CISA「Zero Trust Maturity Model」Version 2.0 — ゼロトラストの成熟度を測る公的な枠組み
本記事は2026年10月時点の当社の運用と、公開情報に基づいています。